今から20年ほど前になろうか、白馬で冬季オリンピックが開かれ、斎藤・岡部・船木・原田のジャンプ陣に日本中が熱狂していた頃(それは昨年のラグビーW杯に匹敵するくらいの規模のものだった)、「ダーチャ」のある生活が都会の人々には望ましいのではないかと考えたことがある。
「ダーチャ」とはその昔、ソ連があった頃(世界は共産主義国と自由主義国に別れていたのですと大真面目に説明しなければいけないほど時間が経ってしまった)、貧しいとされていたソ連の人々が、実は生活をエンジョイしていて夏の週末ともなれば郊外にある別荘に出かけて行き、野菜を自家栽培し自然を満喫していた、その別荘のことである。ロシア語で「ダーチャ」と呼ぶとどこかで読んだか聞いたか記憶があった。なかなか素敵なライフスタイルじゃないか、それに比べて経済成長した日本はどうなんだ、みんなは生活をエンジョイしているのか、満員電車に揺られて朝から晩まで働きづめ、まったく楽しくない顔で電車の中で眠り呆けているではないか、そんな論調だったような気もする。
あれから20年ほど経った今になってもそのあたりはあんまり変わってないんじゃないかとこの原稿を書きながら思ったりしているが、あの頃も盛んに叫ばれた「東京一極集中」なるものはもっと酷くなっているんじゃないかと思う。高校を出て地元から東京に移り住むのが当たり前のようになり、寂れていく地元のシャッター通りはますます荒れ果て、人々は郊外のショッピングセンターに車で買い物に出る。街を歩く人はめっきり少なくなり、中学生や高校生がヘルメットを被って自転車に乗っている以外は、誰もが車で走りすぎる。
地方(田舎)は豊かなはずなのに、いつの間にか車がないと生活すらできなくなり、東京からテレビやインターネットを通じて送られてくる情報に価値観を左右され、東京から配られるお金がなければ何一つできない。自分たちで何かを創り出すことなんて夢のまた夢で、自分たちで何が大切で何が不要かを話し合って決めることすらできない。仲間内でつるむばかりで、他人の噂話と悪口で徒党を組む。カタチこそ違えど、地方はだいたいこんな構図で金太郎飴状態だろう。
ちょっと話が外れてしまった。結局のところ、AT(ALL Tango)が目指しているものは、田舎(地方)の復権であり、田舎から新たなトレンドを創り出すことにある。そのための第一歩になりうるのが「ダーチャ」ではないか、と実は本気で考えている。(あくまでも個人の見解です。)20年前になんとなく思い描いたダーチャ生活は、東京に住みながら月に一度くらいは週末に白馬にやって来て田舎の生活を満喫する、というものだった。今から思えば、東京から白馬は遠い。高速でも片道3時間はかかる。かなり無理な設定だったと思うが、ならば京都と丹後はどうか。京都縦貫道を使えば片道1時間半で行けるだろう。金曜日に仕事が終わってからでも無理すれば行ける。それくらい近い。
どうしてわざわざ田舎に行かなればいけないのか。そういう人には「人間には都会と田舎の2つが日常的に必要なのだ」と言えば通じるだろうか。都会にばかり住んでいると、知らず知らずに思考が人間中心になる。この世には人間しかいないかのように振る舞い、スーパーマーケットで食べ物を買うのが当然と考え、何もかもが整っていないと「不便だ」と文句を言い出す。そういうときは田舎に出かけて自然の中に身を置き、いかに自分が快適さ、便利さのみを追い求めているか省みる。人間の愚かさに目を向け、少しでもより良く生きていくためにはどうすれば良いか、他人の目を気にせず、言いたいことを言い、やりたいことをする、それでいて自分も周りもハッピーになるにはどうすればいいのか、波の音を聴きながら考える。そんな時間が必要なのだ、といえば伝わるだろうか。
長々と書いてきたが、結論は至ってシンプル。ATは都会と田舎をリンクさせて、どちらに住んでいようがハッピーになる道を考えて動いていく、そういうことです。そのために今年も真剣に遊びたいと思います。(KT)
「ダーチャ」とはその昔、ソ連があった頃(世界は共産主義国と自由主義国に別れていたのですと大真面目に説明しなければいけないほど時間が経ってしまった)、貧しいとされていたソ連の人々が、実は生活をエンジョイしていて夏の週末ともなれば郊外にある別荘に出かけて行き、野菜を自家栽培し自然を満喫していた、その別荘のことである。ロシア語で「ダーチャ」と呼ぶとどこかで読んだか聞いたか記憶があった。なかなか素敵なライフスタイルじゃないか、それに比べて経済成長した日本はどうなんだ、みんなは生活をエンジョイしているのか、満員電車に揺られて朝から晩まで働きづめ、まったく楽しくない顔で電車の中で眠り呆けているではないか、そんな論調だったような気もする。
あれから20年ほど経った今になってもそのあたりはあんまり変わってないんじゃないかとこの原稿を書きながら思ったりしているが、あの頃も盛んに叫ばれた「東京一極集中」なるものはもっと酷くなっているんじゃないかと思う。高校を出て地元から東京に移り住むのが当たり前のようになり、寂れていく地元のシャッター通りはますます荒れ果て、人々は郊外のショッピングセンターに車で買い物に出る。街を歩く人はめっきり少なくなり、中学生や高校生がヘルメットを被って自転車に乗っている以外は、誰もが車で走りすぎる。
地方(田舎)は豊かなはずなのに、いつの間にか車がないと生活すらできなくなり、東京からテレビやインターネットを通じて送られてくる情報に価値観を左右され、東京から配られるお金がなければ何一つできない。自分たちで何かを創り出すことなんて夢のまた夢で、自分たちで何が大切で何が不要かを話し合って決めることすらできない。仲間内でつるむばかりで、他人の噂話と悪口で徒党を組む。カタチこそ違えど、地方はだいたいこんな構図で金太郎飴状態だろう。
ちょっと話が外れてしまった。結局のところ、AT(ALL Tango)が目指しているものは、田舎(地方)の復権であり、田舎から新たなトレンドを創り出すことにある。そのための第一歩になりうるのが「ダーチャ」ではないか、と実は本気で考えている。(あくまでも個人の見解です。)20年前になんとなく思い描いたダーチャ生活は、東京に住みながら月に一度くらいは週末に白馬にやって来て田舎の生活を満喫する、というものだった。今から思えば、東京から白馬は遠い。高速でも片道3時間はかかる。かなり無理な設定だったと思うが、ならば京都と丹後はどうか。京都縦貫道を使えば片道1時間半で行けるだろう。金曜日に仕事が終わってからでも無理すれば行ける。それくらい近い。
どうしてわざわざ田舎に行かなればいけないのか。そういう人には「人間には都会と田舎の2つが日常的に必要なのだ」と言えば通じるだろうか。都会にばかり住んでいると、知らず知らずに思考が人間中心になる。この世には人間しかいないかのように振る舞い、スーパーマーケットで食べ物を買うのが当然と考え、何もかもが整っていないと「不便だ」と文句を言い出す。そういうときは田舎に出かけて自然の中に身を置き、いかに自分が快適さ、便利さのみを追い求めているか省みる。人間の愚かさに目を向け、少しでもより良く生きていくためにはどうすれば良いか、他人の目を気にせず、言いたいことを言い、やりたいことをする、それでいて自分も周りもハッピーになるにはどうすればいいのか、波の音を聴きながら考える。そんな時間が必要なのだ、といえば伝わるだろうか。
長々と書いてきたが、結論は至ってシンプル。ATは都会と田舎をリンクさせて、どちらに住んでいようがハッピーになる道を考えて動いていく、そういうことです。そのために今年も真剣に遊びたいと思います。(KT)