1840年アヘン戦争後、イギリスが植民地化した当初は岩山だらけだったとも言われていた香港。その後、森林が増え、数々のトレッキングコースが整備された背景には何があったのだろう? 前回の続きです。
「あのぉ〜。いつになったら香港の山に登り始めるんですか?」というお声もいただくが(笑)、トレッキングを入り口にして調べ始めると、今までまるっきり興味のなかった香港のアレコレがおもしろくてしかたなくなってしまった。なので、本題のトレッキングを始めるまで、もう少しおつきあいいただけると嬉しい。(興味のない方はすっ飛ばしてください。)
7世紀に始まった唐の時代から、中国の貿易拠点は常に香港の北西、広州におかれていたため、植民地化された当初の香港は、わずか7,500人程度の寒村に過ぎなかったと言われている。そんな海沿いの小さな村に、イギリス系の貿易会社が次々と拠点を構え始めたことにより、当時混乱し始めていた清朝から、たくさんの中国人が新しい仕事や商売を求めてなだれ込んできた。
すでにイギリスの植民地だったインドや、ヨーロッパからも人々がやって来たため、香港の人口は植民地化4年後には24,000人、20年後には12万人以上にもなったと言われている。(その後、第2次世界大戦で、日本が一時的に占領する前は120万人、現在は700万人以上の人々が暮らしている。)
この爆発的な人口増加に伴って起こったのは、深刻な水の供給問題だった。
亜熱帯気候の香港には、もちろんたくさんの雨が降る。しかし、ほとんどが岩山で植物が根を張りにくい地盤のため、降った雨は地下水にならず、山の表面を流れ落ちてしまう。そこでイギリス政府は、岩肌を流れる雨水を受けとめ、貯めておくための貯水池を香港各地に作り始めた。
貯水池を保護するために大規模な植林が開始されたのは1860年代だという。最初は香港島、その後新界地域に大規模な植林が行われた品種はマツ。この植林によって、香港の森林面積は全土の2割にまで広がった。第2次世界大戦の日本軍侵略により、深林のほとんどが一旦焼失。戦後、再びイギリス政府による植林が再開され、香港の土壌に適応し、かつ成長の早い台湾アカシアなどの外来種が多く用いられたという。何十年にも及ぶ、この地道な植林活動により、現在、香港の深林面積は約4割にまで広がっている。
ちなみに、このような貯水池を香港各地に17個もつくり、トイレなど生活用水の一部を海水にするなどあらゆる努力をしても、香港内で確保できる水量は、現在の人口700万人が毎日使う水の約2割に過ぎない。
そのためイギリス政府は、1960年代に香港から80km以上離れた中国広東省の東江(川の名)からパイプラインを引き、中国から大量の水を輸入し始めた。イギリス統治下の香港は、中国から水(さらには電力も)を購入することで繁栄した一方、1980年代の香港返還交渉で、中国側に有利に握られていたのも、この水の供給ラインが大きかったことは、とても興味深い。(MK)
※冒頭の写真は、トレッキング地点へ向かったバスの中から見た香港の貯水池のひとつ。大潭湾の奥に、貯水池である大潭水塘が見える。