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香港トレッキング⑥ 〜空飛ぶ夢とネーミング〜

8/29/2018

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龍の背中に乗ったこと、ありますか。もしくは空を飛んだこと、ありますか。私はないのだけど、憧れている。きっかけは数年前に一度だけ見た「空を飛ぶ夢」。
「空を飛ぶ」と言ってもポヨヨ~ンという感じで、残念なくらい風を感じる速度はなく、浮遊体のように漂うものだった(宮崎駿監督の映画『崖の上のポニョ』の魚の女の子ポニョが泳ぐみたいな)。それでも初めての空飛ぶ体験としては素晴らしかった。
この夢以降「と、飛べた~!(う、浮かんだ~!に近い)」というリアルな感覚がずっと体に残っていて、あの幸せな体験をいつかまたしてみたい、と妄想してる。

このことを友人知人に話したところ、夢で飛んでいる人が実にたくさんいることがわかった。ビュンビュン勢いよく飛ぶ人はもちろん、手を使って一生懸命羽ばたく人、平泳ぎするようにゆったり飛ぶ人、中には勢いよくブランコに乗っているうちに、そのまま何度も飛んでいった経験を持つ人(もちろん夢の中で)もいた。
おそらく、人類は物心ついたころから「空を飛びたい」生き物だっただろう。けれど現代においてはまだ「今日の空、いいよね~。あっち方面に飛びたいね~。」「おぉいいねー。今日は時間あるよ。どうやって飛ぶ?」なんて会話をすることはないので、夢をきっかけに知り合いの「飛ぶ」体験を聞くことができたのは、とても楽しかった。なぜなら、本当にそれぞれおもしろいほど違うから(飛び方と個性って関係してる?)。そう、人それぞれ歩き方も話し方も食べ方もすべて違うように、夢での飛び方だってまるきり違うのだ。

もちろん、この身のままポーンと飛べるのが一番だけど、龍の背中に乗ってビューンと空を飛べたら最高。私個人では決して出ないスピードで空を飛べそうだから。(どうがんばっても今のところ最高時速はポヨ〜ンだもの・・・。)例えば映画「ネバーエンディングストーリー 」で、ファルコンに乗る少年のように。または、TVアニメ「日本昔ばなし」のオープニングに出てくる「龍の子太郎」(♪ぼうや~よい子だネンネしな~♪のオープニングソングとともに流れるアニメーション)みたいに。
そんなわけで、私が数ある香港トレッキングコースの中から選んだのが「ドラゴンズバック(Dragon’s Back) 」、広東語で「龍脊」だったのは言うまでもない。(ふう。無事に着地できた~。)

*****

前述した通り、香港のトレッキングコースは実に数多い。50~100kmにおよぶ長大トレイルは4つ、そのほかに大小50はあると言われている。そんな中から行きたいコースをひとつひとつ吟味したい人がいるとしたら、間違いなくマニアである。(マニアなあなたには『香港アルプス ジオパークメジャートレイル全ガイド』金子晴彦・森Q三代子著 アズ・ファクトリー(2010)がオススメ。)
私の場合、長大なコースを歩くには全くもって体力に自信がなく、時間もなかったため、宿泊場所からのアクセスが良く半日程度で行って帰って来れる絶景コースを希望していた。ネーミングに飛びついたけれど、この点でもDragon’s Backはうってつけだった。

​とは言え、香港のトレッキングコースは、どこもたいていはアクセスがいい。
そもそも香港自体が大きな地域ではない(香港島・九龍・新界すべてを含めても東京都の約半分の大きさ)。さらに、香港中にトレッキングコースを作ったイギリス人は、長いコースのすべてを5~15kmごとに区切ってセクションをもうけ、その区切り地点がバスやタクシーの通る車道に面するよう工夫した。
おかげで長いコースでも、1~2セクションだけ歩いて一度街へ戻り、後日続きのセクションを歩くことが可能だ。これなら休みが短い人でも、体力がない人でも、思いついたときにぶらっと行って手軽にトレッキングを楽しめる。こんなコースを行政主導で作っていったのだから、さすがフットパスの国のイギリス人だ。

Dragon’s Backは香港島の南東、石澳半島(Shek O Peninshula)にある尾根を南から北へ歩くコースで、香港島を西から東へ蛇行しながら進む全長50kmの「香港トレイル」全8セクションの最後のセクションにあたる。この半島の尾根部分、標高284mのShek O Peakと265mのWan Cham Shanをつなぐ部分がいわゆる「龍脊」、龍の背骨ということなのだろう。きっと、そこに登って周囲を眺めると、まるで竜の背中に乗って空から半島や海を眺めているかのような景色が広がっているに違いない、と想像した。なんて素晴らしいネーミング。

ネーミングにちなんで少し話がそれるが、香港を旅していて戸惑ったのが地名の呼び方だった。「龍脊=Dragon’s Back」は広東語も英語も意味が同じだと察せられてわかりやすいが、そうとばかりはいかないネーミングがたくさんあったからだ。
香港には昔からある広東語、いわゆる漢字の地名と、イギリス人がつけた英語の地名がある。ちなみに、日本軍が占領したわずか3年8ヶ月の間には、それにかぶせるように日本語の地名がつけられていたという。「もうここは私たちのものだ」と主張したいときにまず使う手法の代表例が、あらゆる名前を自国の言葉に変更することなのだろうと思う。

それはともかく、イギリス人の香港における地名のネーミングパターンはなかなかおもしろくて好きになった。私が見たところ、パターンは3つ。
香港島の中心地「中環=Central」のように、おそらく通訳者に広東語の意味を確認し、それに合わせて英語の名前がつけられたものがひとつ。「深水湾=Deep Water Bay」もそう。とってもわかりやすい。
2つ目は、広東語の音読みをそのまま英語に当てはめたもので、例えば先ほど出てきた「石澳=Shek O」。「澳」は「入り江」という意味で、広東語では「au」と発音する。これを英語一文字「O」で片づけるなんて、なかなかセンスがいい。しかしこのノリは特別で(私は好きだが)、多くはDragon’s Backの峰のひとつ「雲枕山=Wan Cham Shan」のようにやや難解な音訳がそのまま英語になっているものが多い。日本語的に「ウンチンサン」とか「くもまくらやま」と読みたくなって、なんともじれったくなるのだ。
3つ目は、広東語とは全く異なる意味の英語がつけられたもの。例えば、香港島の北を走る地下鉄の駅「銅鑼湾」は、銅鑼のように丸い入り江だったことからつけられた地名だが、イギリス人はそこにあった石の堤防にちなんで「土手道」を意味するCauseway Bayという名をつけた。雲枕山の北西には標高348mの「歌連臣山=Mount Collinson」があるが、この名前は、1845年イギリス人のトーマス・コリンソン中尉が初めて香港島の詳しい地図を作ったことを称えてつけられたという。香港に住む人にとってはなんのこっちゃと言いたくなるネーミングだ。
これらとは別に、イギリス人によってつけられた地名を漢訳したものもある。「Queen’s Road」は香港でイギリス人が最初に作った道と言われているが、のちに同じ意味の広東語で「皇后道」とつけられている。

​このネーミングパターンから見ると「龍脊=Dragon’s Back」は、イギリス人が漢字の意味を知って「なるほど、龍の背か。なかなかいいな。よし、そのまま採用じゃ!」とばかりに英語の名前をつけたのではないかと想像する。もしもこれが広東語の音読みにちなんで「Long  Ji」なんてつけられていたら、このトレッキングコースの魅力は半減するに違いない(個人的見解)。
​さあ、次回こそ龍の背に乗って空を飛びに行くぞ〜。[つづく](MK)
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香港トレッキング⑤ 〜イギリス人と歩くこと〜

8/23/2018

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前回「香港トレッキング④ ~終戦の日に~」を投稿したあと、友人や見知らぬ人から「よかったよ!」と声をかけてもらったり、「いいね!」をたくさん押してもらった(ありがとう~!!)。それがこんなにも嬉しいものなのか~、というくらい嬉しくて、この1週間はそわそわと落ちつかない気持ちで過ごした。
と同時にわたしの中にむくむく湧き起こってきたのは、「次もいいものを書きたい」「よかったよ!と言ってもらえるものを書きたい」という願望。。。笑 

自分の存在価値を自分以外の誰かにアピールしたいとき、その方法は人それぞれいろいろある。「アピールする必要なし!そもそも価値があるんだから。」という人もいると思うのだが、わたしの場合「アピールしないと自分の価値はわかってもらえない」と思い込んでいたところがあって、「よくやったね。」「すごいね!」と「言われそうなことをする」という方法を、ごく小さいころから選んできたようだ。
気がついたら無意識のうちに、自分が本当にやりたいことよりも周囲に褒められたり、認められることをすることが増え、そのために一生懸命がんばる子になっていたところがある。(もちろん全部ではないし、特別悪いことでもない。ツマラナイけどね。)

「次もよかったよ!と言われるものを書きたい」が自分の中に出てきたとき、ふと立ちどまった。
わたしが一番大事にしたいことは、そこか?、と。
こうして書くことそのものが楽しいのだから、書いたものが誰かに伝わって喜んでもらえたとしても、それは幸せのオマケにすぎない。なのに、ついついわたしは「オマケ」ばかりを追いかけようとする傾向があるらしい。
自分が書き表したかった思いが誰かに届いた!、という体験と嬉しい気持ちは胸いっぱいに受けとって、わたしはわたしのまま、とらわれることなく書こう。今はそんな気分。
すなわち毎回ヒットは打てないけど、楽しんで書くのでよろしくね、という言い訳でもあります。笑

*****

さて。香港のトレッキング。
個人的な興味の赴くまま、なぜ香港にトレッキングコースが作られてきたのか?という疑問をたどってきた。
岩山だらけの寒村だった香港島。イギリスの統治が始まり、人口増加に伴う水不足を補うための貯水池が各地に作られ、保水目的で周囲に大規模な植林が行われた。それにより森林面積は、香港全体の4割にまで広がった。

ここまでなら、現在でも発展途上国の水不足解消や環境保護を目的に、世界各地で取り組まれていることだろう。しかし、イギリス人はその緑化したエリアに縦横無尽にトレッキングコースを作ろうと試みた。この発想、他の民族にはなかなかないんじゃないだろうか?と思う。
当初わたしは、それは「歩くこと」が好きなイギリス人だからこそ、イギリス人のために作ったのだろうと思っていた。

甲南大学教授で英文学者の中島俊郎さんという方が「ウォーキングの文化史~イギリス人はいかに歩き、何を生み出したか~」という論文を書いている。甲南大学が学術研究などの発展に貢献するため、ネット上に無償公開している雑誌『甲南大學紀要 文学編 164(2013)』へ寄稿されたもので、イギリス人と「歩くこと」についての歴史的な考察がとても興味深い。

それによるとイギリス人は、ときに巡礼のために、ときに名声や思想のために、そして詩作や風景画を書くためにと、積極的に歩いてきた民族のようだ。
18世紀半ばの産業革命以後は、中心地が都市化すると街中を徘徊する「都市歩き」が流行し、鉄道による長距離移動が可能になると、汽車を使ってロンドン郊外へ出たあと、わざわざ歩いて街へ戻るという「日曜遊歩会」など、歩くことを目的とした同好会ができ、盛んに活動し始めた。(わざわざ歩きたい気持ちは、ALL Tangoとしてもちろん共感する。)
さら20世紀に入ると、体力を誇示するための競歩的歩行大会が開催されたり、アルプスへの登山熱とともに山に登ることを目的とした歩行が大ブームとなった。モンブラン登頂に成功したアルバート・スミスは、その模様を舞台化し大成功をおさめたという。

そんなイギリス人の歩く文化の集大成とも言えるものが、個人の私有地でさえ市民が歩く権利を認める「パブリック・フットパス」、すなわち「歩行者に通行する権利を保証する道」であり「歩くことを楽しむための道」である。1932年には「歩く権利法」として法制化され、現在ではイギリス全土に20数万kmにも渡ってフットパスが張り巡らされている。
戦後1949年には「国立公園・カントリーサイドアクセス法」が制定され、人が定住していようと個人の私有地だろうと関係なく、自然を保護し市民の通行権を保障する国立公園があちこちに作られた。個人の土地所有権が確固たるものとされている日本では、まず思いつかない権利であり法律ではないかと思う。

​そんな「断固歩く」イギリス人だからこそ、植民地化した香港でも歩かずにはいられないのだろうと思っていた。無いならば作れとばかりに、トレッキングコースを整備したのだと思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。これがまた興味深いところだ。

1976年、中国大陸で起こった文化大革命の影響で、香港人労働者や学生による反イギリス暴動が勃発した。警官隊や軍隊が投入され数ヶ月ののちに鎮圧されたものの、死者は50人以上、800人以上が負傷する事態となる。イギリス政府は、こうした若者のエネルギーを他へと向かわせるため、1971年、貯水池の一角にバーベキューサイトを作り、試験的にレクリエーション施設を設置して若者を呼び込んだ。
これが功を奏して人気を博すると、1976年には「カントリーパーク条例」が制定され、カントリーパーク(都市公園)に制定されたエリアには植林を進め、園内を歩き回れるトレッキングコースが整備されることとなる。もちろんこれは、イギリス本土での「パブリック・フットパス」や「国立公園・カントリーアクセス法」の制定、イギリス人の歩く文化が基盤となったことは言うまでもないが、今日に至るまで愛されてきた香港トレッキングコースが作られた直接的なきっかけは、この香港の政治的な緊迫状況にあったようだ。[次回に続く](MK)
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香港トレッキング④  〜終戦の日に〜

8/15/2018

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「行ってみたら、めっちゃよかったんよ~。」と、軽い気持ちで香港トレッキングをVOICEするつもりが、戻ってこれないほど脱線しているこの連載。
今回は香港を離れて日本、しかもここ丹後へとまさかのUターン。自分でも思ってもみなかった展開に、不思議なご縁を感じつつ、連載する機会をいただいたことに(初めて)感謝した。こんな素晴らしい出会いがあるならば、頭であれこれ内容を組み立てて、連載を操縦しようとするのはやめよう(もちろん、目的地はある!)。思いのままに綴っていこう、と改めて腹をくくったのだった。笑

*****

わたしは、この連載を通して香港を調べるようになって初めて、第2次世界大戦で日本がイギリス統治下の香港を制圧したことを知った。日中戦争後、日本は中国の大部分を占領し、その後イギリスを含む連合国に対しても戦争を始めたのだから、香港が戦場となり一次的に日本に統治されたことも不思議はないのだが、そうだったと知ったとき、とても衝撃を受けた。
何気なく旅をした国の歴史に、日本が大きく関わっていた。しかも悲しい歴史の一部として関わっていた。あちこち旅をしてきたけれど、この経験は初めてだった。だからなのかはわからないが、この歴史について、もっと知りたいと思った。(行く前は、そんなことほとんど思ってもいなかったのに、不思議なものだ。)そして出会ったのが、この本だった。

『憎悪と和解の大江山 あるイギリス兵捕虜の手記』
​フランク・エバンス著 糸井定次・細井忠俊訳 彩流社(2009)


著者フランク・エバンスさんは、連合王国イギリスの構成国のひとつであるウェールズの生まれで、1941年に入隊後、経理隊の一員としてイギリスから香港へ派遣された。その頃、ヨーロッパはすでにナチスドイツの脅威にあり、イギリス本国では、極東で勢いを増す日本に対し、香港の防衛は困難だろうと判断していた時期だったという。香港到着後2ヶ月足らずで開戦、1ヶ月に満たない戦いののちに日本軍の捕虜となった彼は、香港の強制収容所で2年、さらに船と列車の劣悪な旅を経て大江山にあるニッケル鉱山の収容所に連れてこられ、終戦までの1年8ヶ月を過ごした。

京都府北部、福知山市・宮津市・与謝野町にまたがる大江山は、丹後に住む人にとっては馴染み深い山だ。標高832mの千丈ヶ嶽は丹後地方の最高峰であり、360°開けた頂上からは南に福知山や綾部市街および丹波の山々が見え、北には丹後半島、若狭湾などが一望できる。ALL Tangoの街歩きミステリープログラム「丹後の鬼ぶらりー」に繋がる「鬼伝説」で有名な山でもある。

この山の北西麓に、軍需品の製造に必要な鉱物をわずかながらでも得るために調査・採掘された、ニッケル鉱山があり、第2次世界大戦下の最盛期には約3,400人もの人たちが働いていた。日本人鉱夫の多くが出征して人手不足になると、学生や囚人のほか、中国・朝鮮から強制連行された350人以上の人々、太平洋戦争で日本軍の捕虜となった香港・マレー半島・フィリピン諸島の連合軍捕虜、約700人が労働させられていたという。フランク・エバンスさんはその一人であり、栄養失調や過酷な労働、蔓延する病気や常態化していた懲罰などの過酷な状況をなんとか生きのびた一人だった。

よそから丹後にやってきたわたしにとってさえ大江山は身近なものだっただけに、そこがかつて1,000人以上の外国人による強制労働の現場だったと知ったときは、文字通りぎょっとした。日本史を学んできた過程で「強制連行」は知っている。「強制労働」も知っている。けれど、こんな身近に、こんな馴染みのある場所に、その「現場」があったとは想像もしていなかった。

この本が、戦争や捕虜となったあとの惨めな生活に関する記述だけだったとしたら、そしてその中で、著者が当然持ったであろう日本に対する恨み辛みが満ちていたとしたら、はたしてわたしは実際に本を手にとり、読んでみようという勇気を持っただろうか。
しかしこの本は、表題にあるような「憎悪」は驚くほど語られていなかった。さらに、彼が戦後再び日本を訪れ、鉱山や捕虜収容所の跡地に立ち、現地の人たちとともにこの地に眠る同僚を偲ぶための慰霊碑を建て、ともに平和を祈念するに至った経緯まで描かれている。わたしの場合、そこにわずかながらでも希望を感じたからこそ、最後まで読み進む気力を得たし、より知りたいという気持ちが動いたことは間違いない。

1985年に英語で出版され(『Roll Call at Oeyama P.O.W.Remembers 大江山の点呼 〜捕虜は思い出す』)、24年を経て日本語版が出版されたこの本は、鉱山や収容所があった町で生まれ育った二人の翻訳者の、並々ならぬ思いをもって翻訳されている。可能な限り事実を確認して翻訳し、読み手である日本人に伝え残そうとする熱意のもとに、細かな訳注もつけられている。
驚くほど淡々と記述されている原著には、終戦直後ウェールズへの帰国を果たしてから、1984年に香港・日本を訪れるまでの著者の「戦後」は全く書かれていない。そのため、翻訳者のひとりである細井忠俊さんは、翻訳作業に入る前にウェールズを訪れ、エバンスさんの戦前・戦後を直に知る人たちと会い、彼の人となりを知る手がかりを取材をしている。
それにより、終戦直後、彼は日本に対して激しい「憎悪」を抱いていたこと、捕虜生活による戦争神経症で深刻な精神的問題を抱えていたこと、戦後、家族の反対があったにも関わらず日本を訪問したことにより、その「憎悪」が「決して忘れることはできない」ものの「許し」へ、平和を願う気持ちへと大きく変化していったことについて、翻訳者によって記されている。この翻訳者二人の思いがあってこそ、日本語版の本がさらに心揺さぶられるものとなっていると思う。

*****

先日、与謝野町にある大江山運動公園のグランド北側にある慰霊碑を訪ねた。

​すぐそばにある道の駅「シルクのまち かや」の一角には、強制連行され鉱山での労働中に亡くなった中国人の方々のための慰霊碑もあった。

本の付録に、エバンスさんが収容所内のトイレットペーパーやダンボールを使って作ったノートの写しがある。このノートは、過酷な状況をともに過ごしていた仲間に回され「いま、わたしの食べたいもの」を書き込んでもらったものだ。
「マフィンが食べたい」「スペアリブの焼肉とレモン・パイ」「アップル・パイの分厚いの」「ミルク・チョコレート」などなど。食べたいものが出身地とサインを添えて、えんえんと書かれている。
淡々と書かれたこの本を淡々と読んできて、ここでわたしの涙腺が崩壊した。いつでも、誰にでもある、普遍的な欲求。「おいしいものが食べたい」が、そこにはあって、遠く感じていた彼らとの距離が一気に縮まり、胸が詰まった瞬間だった。
大好きな家族、愛する人たち、仲間とともに、わたしもしばしばこの会話をする。「ねぇ、いま、何食べたい?」。平和な現代の日本でも、こんなノートを作って回したら、みんな嬉々として次々とおいしいものを挙げ記すだろう。「あいつがコレを書いたらなら、俺はコレを書く。」「どうだ。こっちの方がうまそうだろう?」そんな遊び心に似た気持ちとともに。

ALL Tangoでは、フランク・エバンスさんが過ごした捕虜収容所跡地のそばにある阿蘇海でも、SUPやシーカヤックを使った様々なプログラムを行っている。参加してくださる人たちとともに、毎回とても楽しい時間を過ごし、笑顔で別れる。
​そんな平和で、幸せな日常があることに心からの感謝を込めて。
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.追記:ご紹介した『憎悪と和解の大江山 あるイギリス兵捕虜の手記』は、調べる限り、丹後域内の図書館(与謝野町・宮津市・福知山市・京丹後市)では蔵書となっているようだ。興味があって図書館が近い方はぜひ。(MK)
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香港トレッキング③

8/8/2018

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1840年アヘン戦争後、イギリスが植民地化した当初は岩山だらけだったとも言われていた香港。その後、森林が増え、数々のトレッキングコースが整備された背景には何があったのだろう? 前回の続きです。

「あのぉ〜。いつになったら香港の山に登り始めるんですか?」というお声もいただくが(笑)、トレッキングを入り口にして調べ始めると、今までまるっきり興味のなかった香港のアレコレがおもしろくてしかたなくなってしまった。なので、本題のトレッキングを始めるまで、もう少しおつきあいいただけると嬉しい。(興味のない方はすっ飛ばしてください。)

7世紀に始まった唐の時代から、中国の貿易拠点は常に香港の北西、広州におかれていたため、植民地化された当初の香港は、わずか7,500人程度の寒村に過ぎなかったと言われている。そんな海沿いの小さな村に、イギリス系の貿易会社が次々と拠点を構え始めたことにより、当時混乱し始めていた清朝から、たくさんの中国人が新しい仕事や商売を求めてなだれ込んできた。
すでにイギリスの植民地だったインドや、ヨーロッパからも人々がやって来たため、香港の人口は植民地化4年後には24,000人、20年後には12万人以上にもなったと言われている。(その後、第2次世界大戦で、日本が一時的に占領する前は120万人、現在は700万人以上の人々が暮らしている。)
この爆発的な人口増加に伴って起こったのは、深刻な水の供給問題だった。

亜熱帯気候の香港には、もちろんたくさんの雨が降る。しかし、ほとんどが岩山で植物が根を張りにくい地盤のため、降った雨は地下水にならず、山の表面を流れ落ちてしまう。そこでイギリス政府は、岩肌を流れる雨水を受けとめ、貯めておくための貯水池を香港各地に作り始めた。
貯水池を保護するために大規模な植林が開始されたのは1860年代だという。最初は香港島、その後新界地域に大規模な植林が行われた品種はマツ。この植林によって、香港の森林面積は全土の2割にまで広がった。第2次世界大戦の日本軍侵略により、深林のほとんどが一旦焼失。戦後、再びイギリス政府による植林が再開され、香港の土壌に適応し、かつ成長の早い台湾アカシアなどの外来種が多く用いられたという。何十年にも及ぶ、この地道な植林活動により、現在、香港の深林面積は約4割にまで広がっている。

​ちなみに、このような貯水池を香港各地に17個もつくり、トイレなど生活用水の一部を海水にするなどあらゆる努力をしても、香港内で確保できる水量は、現在の人口700万人が毎日使う水の約2割に過ぎない。
そのためイギリス政府は、1960年代に香港から80km以上離れた中国広東省の東江(川の名)からパイプラインを引き、中国から大量の水を輸入し始めた。イギリス統治下の香港は、中国から水(さらには電力も)を購入することで繁栄した一方、1980年代の香港返還交渉で、中国側に有利に握られていたのも、この水の供給ラインが大きかったことは、とても興味深い。(MK)

※冒頭の写真は、トレッキング地点へ向かったバスの中から見た香港の貯水池のひとつ。大潭湾の奥に、貯水池である大潭水塘が見える。
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香港トレッキング ②

8/1/2018

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「トレッキング?香港で?そんなにいいの??」
香港旅行を前に、まったく知らなかった香港のトレッキングをすすめられ、パンフレットやネットを見てみると、とにかく景色が素晴らしい。
「おぉ〜!行ってみたーい!!」とテンションが上がった。
​前回の続きです。

わたしは大学時代、学業もそこそこに、大鍋やテントを積んで山を駆け回っていたサイクリング部員だった。そして今は、京丹後の自然や文化を発信するALL Tangoメンバーのハシクレでもある。自然豊かで素敵な場所には、とても興味がそそられる。
さらに、身長が低い(という理由だと自分では思っている)ので、高いところから眺める景色が大好きだ。登山する山を選ぶときには「山頂の視界がひらけていて、景色が素晴らしいこと」が絶対条件。写真を見る限り、香港のトレッキングコースは、そんなわたしにうってつけのように感じられた。

ということで、期待を胸に香港へ向かった。
6月の香港は暑い。この夏、ニッポンもそうとう暑いけれど、ホンコンは初夏の時点で十分暑く、まだ暑さに慣れていない体にはかなりこたえた。
ホテルの外へ出ると、まず強い日差しが肌に刺さる。続いて感じるのは、むわっとした熱気。小さな街の中に、見上げるほど高く、かなり古い高層マンションがガンガン立っていて、一斉にエアコンをかけているからなのか?そもそも亜熱帯気候だからなのか?(たぶんそっち。)とにもかくにも蒸し暑い。
ああもう〜っ。キッツーイ!!とガマンできなくなって、うっかり涼しいスタバ@香港へ入りそうになる。(香港に着いてから、ほぼ毎朝通っていた。笑)
いやいやいやいや。今日はトレッキングだ。他の何をおいても、トレッキングだけは行ってみたいと思って来たのではなかったか。
スタバの素晴らしい涼しさと、大好きなカプチーノやスイーツの映像を、ブンッ!と頭から振りはらって、いざ出発。
香港のトレッキングコースは、前述した香港政府観光局が紹介しているだけでも30ほどある。帰国後に調べてみると、50〜100kmにもおよぶ長いコースが4つあり、そのほかに大小50近いコースが整備されているらしい。
おもしろいと感じたのは、そんなトレッキングコースを作ったのが香港人(中国人)ではなく、イギリス人だったということ。

日本では昔から数々の登山道が作られてきた。
古いものでは、昨年、開山1300年を迎えた富山県の白山。修験道(日本古来の山岳宗教が仏教に取り入れられた、日本独自の宗教)の僧侶、泰澄が奈良時代に開山したとされ、現在もたくさんの登山道が整備されている。おそらく、そんな時代よりずっと前から、日本の山は登られてきたであろうと想像できる。

​一方、同じアジアでも、香港にはそのような山岳信仰も、山登りを楽しむ文化もなかったらしい。そもそも、香港の地質は火山噴火によってできた火成岩が大半を占めており、植物が育ちにくい地盤であるため、アヘン戦争後にイギリス統治が始まった1840年代当初は、岩山だらけだったとも言われている。

さて、ではどのような経緯で森林が増え、数々のトレッキングコースが整備されるまでに至ったのか?次回につづく。(MK)
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