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香港トレイル⑧ 〜最終回〜

1/31/2020

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 バス停「石澳道」からDragon’sBackへの登り始めは、熱帯的かつツタ植物的な細い樹木がいらっしゃーいと木陰をつくって迎えてくれた。歩きやすい小道になっていて、大きな石の階段もところどころそなえつけてある。とても整っているトレイルという印象だ。大きな段差の階段を必死によじ登っていると、運動不足がこたえてあっという間に息がきれた。
 私たちのすぐ前を出発したはずの若い欧米人たちは遥か先に行っていて、遠くに見える小山から元気な声が聞こえてくる。それにしても白人の日焼けを気にせぬ服装はうらやましい。この陽ざしの中、男性はもちろん女性もみな半袖もしくはタンクトップ、そして短パンという出で立ちだ。いっぽう、すれ違うアジア人女性(たぶん韓国人か台湾人)はかなしいほど黒づくめの日よけスタイル。帽子を深々とかぶるかパーカーのフードをかぶり、黒いサングラスに黒マスク。長袖の袖口をひっぱり指先まで隠している。見ているだけで暑いのだから、当人はきっとそうとう暑かろう。かく言うわたしも薄手ではあるがもちろん長袖長ズボン。日焼け止めクリームも十分すぎるほど塗ってきた。そうまでしてもこの陽ざしのなか登りたい。そうだ、登りたいのだ。紫外線を吸収しまくって色素沈着するこのアジアンなお肌はせつないものだなぁ、とすれ違うアジア人に語りかけたい気分だった。

 さて、香港の山はとても岩岩しい(iwaiwashii=造語)。上に行くほど歩く道にも岩がむき出しになり、コレは宇宙から落ちてきたのか?と思うような不思議な色の石も転がっている。遠目に見ると日本の山と変わりなく緑いっぱいに見えるが、登っていると岩肌になんとか植物が生えている様子がわかる。なるほどこんな岩山だから降る雨は地表を滑り落ち、降水量が多いわりに水を蓄えにくいのだろう。イギリス人が香港のあちこちにダムをつくろうとしたのも納得だった。
 さらにずんずん登っていくと標識が出てきて小さな東屋に着いた。ここにも登山口と同じかわいい龍の標識があり嬉しくなる。描かれた黄色い龍が、龍たる威厳なく脳天気な感じなのがとても好きだ。東屋からは登山口と反対側の海が見え、美しい砂浜のビーチが見えた。私たちはDragon’s Backの頂上に着いたあと、来た道とは別方向の海辺へくだってザブンと海に入ろうとをもくろんでいたので、あれがそのビーチなのだろうか?とわくわくした。
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 東屋を過ぎると尾根に出る。背の高い熱帯的ツタ的植物はなくなり、日本でいう笹野原はないけれど同じように背の低い植物が山を覆い始める。おかげで日陰はすっかりなくなり、太陽に照りつけらながら歩くことになる。きっとこの尾根こそが龍の背中、背骨部分なのだ!私たちは今まさに龍の背中に乗っているのだぁー!!!…という感慨はイチミリもなく、ただただギラギラした太陽の下、もくもくと歩いた。
  とはいうものの、登山口から30分ほども登ったところでいきなり頂上に到着した。息を切らしてはいたものの「え、もう着いたの?」と少々拍子抜けだ。(連載をこれほどひっぱっておきながら、あまりにあっけないDragon’sBack登山終了であることをお許しいただきたい。)龍の背中からのぞむ360°の眺望はすばらしかった。南には青々と広がる湾が見渡せ、白い砂浜に囲まれた島々が浮かんでいた。反対側には山の間から香港中心街の高層ビル群が見える。
 暑いので長居することなくビーチへの道をくだる。降りていくほどに再び木立が高く茂り日陰の道になった。美しい木漏れ日の小道。小さくてかわいい花がポツンポツンと咲き、不思議な葉っぱが樹木をよじ登っている。こういう見たこともない植物を見つけながら歩くのはとても楽しい。
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 めざすビーチは思っていたより遠かった。山頂まであっという間だったのに比べてダラダラと長い下り道。途中で水場のような場所に出た。おそらく小さな滝から水が流れ落ちてきれいな水たまりになるはずの場所が、しばらく雨が降っていないせいかひどく淀んで手をいれる気にもならない水場になっている。水をたっぷり溜め込んで湧き水になったり、雨が降らなくても小川が流れている日本の山では見かけたことのない光景だ。
 2時間ほどダラダラと山をくだると、突然海辺の町の路地裏へ出た。青い空に青い海、真っ白な砂浜。最高〜!こじんまりとした隠れリゾートのようなビーチが広がっていた。
 とってもお腹がすいていたので、腹ごしらえに海辺にある小さな食堂へ。こんな小さな町でも観光客が来る海辺のリゾートなのだからクレジットカードくらい使えるだろうと思いきや、まさかのキャッシュオンリー。香港はカード社会だと思いこみ、ほんの小銭しか持っていなかった私たちが買えたのは小さなビールと薄い生地のピザだけ。こんなときパリッとクリスピーなピザなど求めていない。なんなら今でまわっているシカゴピザのようなどっしりボリューミーな生地こそ欲しているのだ!と言っても仕方ない。食べ物をいただけるだけありがたいと思おう。お腹が減りすぎて味わうまもなく一気にたいらげ、いざビーチへ!
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 ひゃっほーう!とテンション高く海に入るも、海水は思ったより冷たくてあっという間に出てくることに。しばし浜辺の岩陰でお昼寝。波の音がザブンザブン。とても気持ちがいい。
 出発が遅かったのでのんびりしていると日が暮れてくる。というわけでビーチでひと休みしたあと中心街へもどるバス停へ向かった。しかし時刻表的なものを見てもお目当てのバスがいつ来るのやら、よくわからない。ひっきりなしに来るのはどこを走るかわからないミニバスとカードが使えないタクシーばかり。GoogleMapを見ながらなんとか大型バスがよく通るであろう道まで歩き、持っていた香港の交通機関共通カード「オクトパス」(日本でいうSuicaのようなもの)を使って町まで帰ることができた。やれやれ。

 海外を旅するとき、日本の当たり前は通用しない。ガイドブックやネットに書いてある情報も場合によって不確かなものになる。だからこそハラハラし、ちょっとした冒険をするような気持ちになる。さらに山に登るという選択をしてみた今回の旅は、やはり日常的なハイキングとはまた別のドキドキ感があった。香港のような都会的な観光地にいながら、近くに山があるなら登ってみようという試みは、街とは違う面から香港を感じたり考えることができて楽しい体験だ。登山目的で訪れる国ではなく、こんな都会的な場所の山だからこそおもしろく、そこで出会う人は、人種はまったく違ってもわたしと何かしら似た喜びや楽しみを見出しているひとたちだと思えて、にやにや嬉しい気持ちになる。これからまた海外を旅するとき、もう少し積極的に「街近くの小山をハイキングしてみる」という選択肢を考えてみてもいいかもしれないと思う。
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 というわけで長くひっぱってきたこの連載も今回で終了。心のむくままたくさん脇道にそれ、もしや登らぬまま連載終了か?という長い休止をはさみつつも、わたしはこの連載を書くことをとても楽しみました。長い間つきあってくださった皆さまと、こんなものでも早く続きを書けとせっついてくれた人たちに心から感謝です。(MK)
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ダーチャのある生活

1/23/2020

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今から20年ほど前になろうか、白馬で冬季オリンピックが開かれ、斎藤・岡部・船木・原田のジャンプ陣に日本中が熱狂していた頃(それは昨年のラグビーW杯に匹敵するくらいの規模のものだった)、「ダーチャ」のある生活が都会の人々には望ましいのではないかと考えたことがある。

「ダーチャ」とはその昔、ソ連があった頃(世界は共産主義国と自由主義国に別れていたのですと大真面目に説明しなければいけないほど時間が経ってしまった)、貧しいとされていたソ連の人々が、実は生活をエンジョイしていて夏の週末ともなれば郊外にある別荘に出かけて行き、野菜を自家栽培し自然を満喫していた、その別荘のことである。ロシア語で「ダーチャ」と呼ぶとどこかで読んだか聞いたか記憶があった。なかなか素敵なライフスタイルじゃないか、それに比べて経済成長した日本はどうなんだ、みんなは生活をエンジョイしているのか、満員電車に揺られて朝から晩まで働きづめ、まったく楽しくない顔で電車の中で眠り呆けているではないか、そんな論調だったような気もする。

あれから20年ほど経った今になってもそのあたりはあんまり変わってないんじゃないかとこの原稿を書きながら思ったりしているが、あの頃も盛んに叫ばれた「東京一極集中」なるものはもっと酷くなっているんじゃないかと思う。高校を出て地元から東京に移り住むのが当たり前のようになり、寂れていく地元のシャッター通りはますます荒れ果て、人々は郊外のショッピングセンターに車で買い物に出る。街を歩く人はめっきり少なくなり、中学生や高校生がヘルメットを被って自転車に乗っている以外は、誰もが車で走りすぎる。

地方(田舎)は豊かなはずなのに、いつの間にか車がないと生活すらできなくなり、東京からテレビやインターネットを通じて送られてくる情報に価値観を左右され、東京から配られるお金がなければ何一つできない。自分たちで何かを創り出すことなんて夢のまた夢で、自分たちで何が大切で何が不要かを話し合って決めることすらできない。仲間内でつるむばかりで、他人の噂話と悪口で徒党を組む。カタチこそ違えど、地方はだいたいこんな構図で金太郎飴状態だろう。

ちょっと話が外れてしまった。結局のところ、AT(ALL Tango)が目指しているものは、田舎(地方)の復権であり、田舎から新たなトレンドを創り出すことにある。そのための第一歩になりうるのが「ダーチャ」ではないか、と実は本気で考えている。(あくまでも個人の見解です。)20年前になんとなく思い描いたダーチャ生活は、東京に住みながら月に一度くらいは週末に白馬にやって来て田舎の生活を満喫する、というものだった。今から思えば、東京から白馬は遠い。高速でも片道3時間はかかる。かなり無理な設定だったと思うが、ならば京都と丹後はどうか。京都縦貫道を使えば片道1時間半で行けるだろう。金曜日に仕事が終わってからでも無理すれば行ける。それくらい近い。

どうしてわざわざ田舎に行かなればいけないのか。そういう人には「人間には都会と田舎の2つが日常的に必要なのだ」と言えば通じるだろうか。都会にばかり住んでいると、知らず知らずに思考が人間中心になる。この世には人間しかいないかのように振る舞い、スーパーマーケットで食べ物を買うのが当然と考え、何もかもが整っていないと「不便だ」と文句を言い出す。そういうときは田舎に出かけて自然の中に身を置き、いかに自分が快適さ、便利さのみを追い求めているか省みる。人間の愚かさに目を向け、少しでもより良く生きていくためにはどうすれば良いか、他人の目を気にせず、言いたいことを言い、やりたいことをする、それでいて自分も周りもハッピーになるにはどうすればいいのか、波の音を聴きながら考える。そんな時間が必要なのだ、といえば伝わるだろうか。

長々と書いてきたが、結論は至ってシンプル。ATは都会と田舎をリンクさせて、どちらに住んでいようがハッピーになる道を考えて動いていく、そういうことです。そのために今年も真剣に遊びたいと思います。(KT)

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香港トレッキング⑦

1/15/2020

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 2019年3月、香港で起こったデモは2020年の現在でも続き民主化や平和を求める大規模なものとなっている。香港の街はわたしがDragon's Backへ行ったころとはきっと違う街になっているだろう。わたしが訪れた香港は、活気がありつつも穏やかな街だった。さらに何年も前に香港を旅していた同伴者は、そのころと比べるとイギリスの面影がほとんど見られなくなり、ヨーロッパとアジアの文化が混じり合ったなんともいえない香港独特の魅力が薄れていてさみしいと言っていた。そのときわたしは、政治的にも文化的にもこのまま中国の色が強くなっていくのだろうと思っていたがそうではなかった。香港の人たちが放つ自由へのエネルギーに驚いた。しばらく連載がとぎれたが、わたしなりに改めて香港への親愛と敬意をこめて、最後までこの旅について書こうと思う。

 *****

 Dragon's Back。龍の背中へのアプローチは香港島の北を東西に走る地下鉄の筲箕灣(Shau Kei Wan)という駅から始まる。この地下鉄の頭上では、ほぼ同じ路線を香港トラムいわゆる路面電車が走っているので、トラムに乗って街並みを眺めながら駅へ向かうのもよい。今回はDragon's Backへのアプローチにからめて、わたしが個人的に気になった香港の乗り物について話そう。

 香港の中心地は香港島の北側エリア、ものすごい交通量だ。東京都のおよそ半分の広さの島に、前述したカントリーパーク条例によって保護された森林地帯が約4割を占めている香港。残る6割に750万人以上もの人が住んでいるのだから当然のことかもしれない。
 行き交う主な交通機関は1904年に開通したトラム、1910年開通の鉄道、1920年以降には路線バス、さらにあとには地下鉄が開通した。バスには大手バス会社が運営する大型で快適な2階建バスと、ミニバスと呼ばれる16〜19人乗りの小さなバス(ネコバス的な丸みがあってかわいい)があり、ミニバスにも緑色の小型路線バスと赤色の個人経営バス(始点と終点以外は決まっておらず客の希望によってルートが決まる)がある。これらが一般車に混じって街中を走り回っている。
 一般的な路線バスがすべて2階建てだったことには驚いたが、トラムも2階建てなのを見てとてもわくわくした。普通の電車や車以上に「路面電車」「トラム」となるとわくわく度が上がるのはなぜだろう?そのトラムがさらに2階建てなのである。決して鉄女(鉄道をこよなく愛する女)ではない私でも、「乗ってみたい!」と即座に思った。というわけで、ある夜、晩ごはんを食べたあとホテルへの帰路に乗ってみることにした。
 「トラム」というと、近年欧米を中心に見直され復活してきた、バリアフリー・省エネ・低公害を最新技術で実現しているLTR(Light Rail Transit)を思い浮かべる人もいると思う。車幅が広く、ノンステップになっているので車体も低い。洗練されたデザインでヨーロッパの石畳スレスレを這うように走っている、あのすてきな路面電車だ。しかし、香港のトラムは違うのだ。日本に昔からある、車体が細くて座席位置が高い路面電車をそのまま2階建てにしたようなもの。細くて2階建だから重心が高い、見ていて横に倒れないかと少しひやひやする。さらに香港トラムは、まだほとんどの内装が木製。エアコンも車内灯もない。その晩、それと知らずに乗ったら車内はとても暗くて、窓から入る街のネオンを頼りに手元を確認する始末だった。開け放たれた窓からは外の熱気とすぐ隣をバンバン走る車の排気ガスが入ってきて、お世辞にも居心地はよくない。強すぎるとは言えしっかり冷房が効いていて、座席も日本の高速バスのように心地よい清潔なシートになっている2階建路線バスの方が断然いい。けれど木製の車内が「ガタンゴトン」と懐かしい音を立てて揺れる感じや、観光客がほぼおらず、香港庶民にもまれながらローカル感を楽しめるという点では得がたい体験だった。まさに映画『三丁目の夕日』に飛びこむ感覚。場所だけでなく時間も小トリップしたようだった。
 料金が安く(2018年6月現在、一律2.6香港ドル=約40円!)使い勝手がいいこともあって、地下鉄や路線バスが走るようになった今でも、このトラムは香港市民に根強く愛用されており、黒字経営が続いているという点もすてきだ。

 ところで、路面バスやこのトラムなど香港には乗り物を2階建にする文化があるのだろうか?それはイギリスから来たのだろうか?と疑問が浮かんだ。
 人が乗るものを2階建てにし始めたのはフランスが発祥の乗合馬車だったようで、当初、馬車の本体に人、屋根には荷物を乗せるだけだったものが、その便利さゆえに乗客が増え馬車内におさまりきらない人たちが2階へよじ登り始めたのがきっかけだったという。ちなみに、この乗合馬車の乗り心地を少しでもよくするために、道路にレールを敷き、その上に滑車に乗せた荷台を乗せて馬に引かせて始まったのが「馬車鉄道」で、こちらはイギリスが発祥だ。揺れを少なくするために、地面を平らにしようとするのではなくレールを敷いてしまおうという、まったくもって効率のいい考え方が生まれたのは、さすが産業革命の国イギリスだ。やがて動力は馬力から蒸気機関に、ほどなく電力へと変わっていった。2階建て馬車も、自然な流れで2階建てトラム、さらに2階建てバスとなっていったのだろう。香港のトラムは予想どおりそんなイギリスから持ち込まれた。イギリスが香港を統治下し始めた1840年代は、ちょうどイギリス国内の鉄道が急速に発達した時期だったのだ。
 残念ながら第2次世界大戦以降、イギリスの路面電車は削減・廃止されていったが、この2階建てトラムは現在ロンドンのブラックプール市に残っており、それ以外ではエジプトのアレキサンドリア市とこの香港でしか走っていない珍しいものとなっている。
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 トラムで筲箕灣(Shau Kei Wan)駅に着くと、そこはやや大きなバスターミナルになっている。9番のバスに乗ればDragon’s Backの登山道入り口ともいえるバス停「石澳道」まで約25分。距離にして約6kmなので、時間をかけてでも歩いてみたいという人は香港島を徒歩で南下してみるのもいいかもしれない。
 バス停「石澳道」にはかわいい龍の標識があり、看板地図やトイレもある。海側、木立ちの向こうには大潭灣(Tai Tam Bay)という青い湾や香港島の島々、半島が見える。この景色でさえ素晴らしいのに、龍の背に乗ってみたらどんな景色と出会えるのだろう?暑さになえて出発が遅かったのでバスを降りたのはちょうど正午過ぎ。初夏の太陽がまさにギラギラと照りつけていたが、登山口に立つといよいよ登るわくわくするような感覚を感じていた。
 さあ、次は龍の背をトレッキングだ。(つづく)
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2020年の夢

1/7/2020

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新年明けましておめでとうございます。

今年はどんな年にしたいのかいろいろ考える余裕もなく新年を迎え、さて今年こそはもう少しAT(ALL Tango)の活動を本格化させたいと思いつつ、何をどう企画していこうかなどと雑煮を食べながら考えているうちに「そういえば、ATV(ALL Tango VOICE)の更新がほとんど止まっているじゃないか」と気付き、ならばと今年はコンスタントに(できれば毎週水曜日)継続させていきたいと思い至った次第です。

毎週ずっと書き続けるのは並大抵なことではないことは重々承知、そして今まで何度も止まっていたことも重々承知。それでも今までのことは棚に上げて、常に再出発。そんな感じで良いんじゃないかと自分を甘やかしつつ、これからも筆を進めていこうと思います。

さて、それではそろそろ本題へ。

今年をどんな年にしたいのか。ATを始めて6年目の今年は一体どんな年になるのか、したいのか。
やっぱり大きな絵を描きたいと思う。日本ではどうしても大きな絵を描くよりは細部を詰めることに重点が置かれる気がするので、敢えてここでは大きな絵を描くことにこだわりたい。大きな絵を描き、突き抜ける。出る杭は打たれるけれど、突き抜けた杭は打たれない。

まずは丹後のカルチャーを発信する機会を作りたい。新たな要素を加えながら、旧いものと新しいものを融合させていく。丹後にビーチカルチャーが根付く、なんてのはどうか。手つかずの自然が残るエリアがあり、プラスチックに汚されていないビーチが広がり、電線と電柱が風景を邪魔しない場所。都市部から海を愛する人々が別荘に訪れ、週末には賑わいを見せる街。多様なバックグラウンドを持った人々が集まり、日本であって日本でないような場所。そんな場所に丹後がなったら面白いはず。(あくまでも個人の見解です。)

とまぁ、丹後のカルチャーを発信するプラットフォームづくりに邁進していく一年にしたいと思います。
本年もどうぞよろしくお願いします。(KT)

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香港トレッキング⑥ 〜空飛ぶ夢とネーミング〜

8/29/2018

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龍の背中に乗ったこと、ありますか。もしくは空を飛んだこと、ありますか。私はないのだけど、憧れている。きっかけは数年前に一度だけ見た「空を飛ぶ夢」。
「空を飛ぶ」と言ってもポヨヨ~ンという感じで、残念なくらい風を感じる速度はなく、浮遊体のように漂うものだった(宮崎駿監督の映画『崖の上のポニョ』の魚の女の子ポニョが泳ぐみたいな)。それでも初めての空飛ぶ体験としては素晴らしかった。
この夢以降「と、飛べた~!(う、浮かんだ~!に近い)」というリアルな感覚がずっと体に残っていて、あの幸せな体験をいつかまたしてみたい、と妄想してる。

このことを友人知人に話したところ、夢で飛んでいる人が実にたくさんいることがわかった。ビュンビュン勢いよく飛ぶ人はもちろん、手を使って一生懸命羽ばたく人、平泳ぎするようにゆったり飛ぶ人、中には勢いよくブランコに乗っているうちに、そのまま何度も飛んでいった経験を持つ人(もちろん夢の中で)もいた。
おそらく、人類は物心ついたころから「空を飛びたい」生き物だっただろう。けれど現代においてはまだ「今日の空、いいよね~。あっち方面に飛びたいね~。」「おぉいいねー。今日は時間あるよ。どうやって飛ぶ?」なんて会話をすることはないので、夢をきっかけに知り合いの「飛ぶ」体験を聞くことができたのは、とても楽しかった。なぜなら、本当にそれぞれおもしろいほど違うから(飛び方と個性って関係してる?)。そう、人それぞれ歩き方も話し方も食べ方もすべて違うように、夢での飛び方だってまるきり違うのだ。

もちろん、この身のままポーンと飛べるのが一番だけど、龍の背中に乗ってビューンと空を飛べたら最高。私個人では決して出ないスピードで空を飛べそうだから。(どうがんばっても今のところ最高時速はポヨ〜ンだもの・・・。)例えば映画「ネバーエンディングストーリー 」で、ファルコンに乗る少年のように。または、TVアニメ「日本昔ばなし」のオープニングに出てくる「龍の子太郎」(♪ぼうや~よい子だネンネしな~♪のオープニングソングとともに流れるアニメーション)みたいに。
そんなわけで、私が数ある香港トレッキングコースの中から選んだのが「ドラゴンズバック(Dragon’s Back) 」、広東語で「龍脊」だったのは言うまでもない。(ふう。無事に着地できた~。)

*****

前述した通り、香港のトレッキングコースは実に数多い。50~100kmにおよぶ長大トレイルは4つ、そのほかに大小50はあると言われている。そんな中から行きたいコースをひとつひとつ吟味したい人がいるとしたら、間違いなくマニアである。(マニアなあなたには『香港アルプス ジオパークメジャートレイル全ガイド』金子晴彦・森Q三代子著 アズ・ファクトリー(2010)がオススメ。)
私の場合、長大なコースを歩くには全くもって体力に自信がなく、時間もなかったため、宿泊場所からのアクセスが良く半日程度で行って帰って来れる絶景コースを希望していた。ネーミングに飛びついたけれど、この点でもDragon’s Backはうってつけだった。

​とは言え、香港のトレッキングコースは、どこもたいていはアクセスがいい。
そもそも香港自体が大きな地域ではない(香港島・九龍・新界すべてを含めても東京都の約半分の大きさ)。さらに、香港中にトレッキングコースを作ったイギリス人は、長いコースのすべてを5~15kmごとに区切ってセクションをもうけ、その区切り地点がバスやタクシーの通る車道に面するよう工夫した。
おかげで長いコースでも、1~2セクションだけ歩いて一度街へ戻り、後日続きのセクションを歩くことが可能だ。これなら休みが短い人でも、体力がない人でも、思いついたときにぶらっと行って手軽にトレッキングを楽しめる。こんなコースを行政主導で作っていったのだから、さすがフットパスの国のイギリス人だ。

Dragon’s Backは香港島の南東、石澳半島(Shek O Peninshula)にある尾根を南から北へ歩くコースで、香港島を西から東へ蛇行しながら進む全長50kmの「香港トレイル」全8セクションの最後のセクションにあたる。この半島の尾根部分、標高284mのShek O Peakと265mのWan Cham Shanをつなぐ部分がいわゆる「龍脊」、龍の背骨ということなのだろう。きっと、そこに登って周囲を眺めると、まるで竜の背中に乗って空から半島や海を眺めているかのような景色が広がっているに違いない、と想像した。なんて素晴らしいネーミング。

ネーミングにちなんで少し話がそれるが、香港を旅していて戸惑ったのが地名の呼び方だった。「龍脊=Dragon’s Back」は広東語も英語も意味が同じだと察せられてわかりやすいが、そうとばかりはいかないネーミングがたくさんあったからだ。
香港には昔からある広東語、いわゆる漢字の地名と、イギリス人がつけた英語の地名がある。ちなみに、日本軍が占領したわずか3年8ヶ月の間には、それにかぶせるように日本語の地名がつけられていたという。「もうここは私たちのものだ」と主張したいときにまず使う手法の代表例が、あらゆる名前を自国の言葉に変更することなのだろうと思う。

それはともかく、イギリス人の香港における地名のネーミングパターンはなかなかおもしろくて好きになった。私が見たところ、パターンは3つ。
香港島の中心地「中環=Central」のように、おそらく通訳者に広東語の意味を確認し、それに合わせて英語の名前がつけられたものがひとつ。「深水湾=Deep Water Bay」もそう。とってもわかりやすい。
2つ目は、広東語の音読みをそのまま英語に当てはめたもので、例えば先ほど出てきた「石澳=Shek O」。「澳」は「入り江」という意味で、広東語では「au」と発音する。これを英語一文字「O」で片づけるなんて、なかなかセンスがいい。しかしこのノリは特別で(私は好きだが)、多くはDragon’s Backの峰のひとつ「雲枕山=Wan Cham Shan」のようにやや難解な音訳がそのまま英語になっているものが多い。日本語的に「ウンチンサン」とか「くもまくらやま」と読みたくなって、なんともじれったくなるのだ。
3つ目は、広東語とは全く異なる意味の英語がつけられたもの。例えば、香港島の北を走る地下鉄の駅「銅鑼湾」は、銅鑼のように丸い入り江だったことからつけられた地名だが、イギリス人はそこにあった石の堤防にちなんで「土手道」を意味するCauseway Bayという名をつけた。雲枕山の北西には標高348mの「歌連臣山=Mount Collinson」があるが、この名前は、1845年イギリス人のトーマス・コリンソン中尉が初めて香港島の詳しい地図を作ったことを称えてつけられたという。香港に住む人にとってはなんのこっちゃと言いたくなるネーミングだ。
これらとは別に、イギリス人によってつけられた地名を漢訳したものもある。「Queen’s Road」は香港でイギリス人が最初に作った道と言われているが、のちに同じ意味の広東語で「皇后道」とつけられている。

​このネーミングパターンから見ると「龍脊=Dragon’s Back」は、イギリス人が漢字の意味を知って「なるほど、龍の背か。なかなかいいな。よし、そのまま採用じゃ!」とばかりに英語の名前をつけたのではないかと想像する。もしもこれが広東語の音読みにちなんで「Long  Ji」なんてつけられていたら、このトレッキングコースの魅力は半減するに違いない(個人的見解)。
​さあ、次回こそ龍の背に乗って空を飛びに行くぞ〜。[つづく](MK)
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香港トレッキング⑤ 〜イギリス人と歩くこと〜

8/23/2018

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前回「香港トレッキング④ ~終戦の日に~」を投稿したあと、友人や見知らぬ人から「よかったよ!」と声をかけてもらったり、「いいね!」をたくさん押してもらった(ありがとう~!!)。それがこんなにも嬉しいものなのか~、というくらい嬉しくて、この1週間はそわそわと落ちつかない気持ちで過ごした。
と同時にわたしの中にむくむく湧き起こってきたのは、「次もいいものを書きたい」「よかったよ!と言ってもらえるものを書きたい」という願望。。。笑 

自分の存在価値を自分以外の誰かにアピールしたいとき、その方法は人それぞれいろいろある。「アピールする必要なし!そもそも価値があるんだから。」という人もいると思うのだが、わたしの場合「アピールしないと自分の価値はわかってもらえない」と思い込んでいたところがあって、「よくやったね。」「すごいね!」と「言われそうなことをする」という方法を、ごく小さいころから選んできたようだ。
気がついたら無意識のうちに、自分が本当にやりたいことよりも周囲に褒められたり、認められることをすることが増え、そのために一生懸命がんばる子になっていたところがある。(もちろん全部ではないし、特別悪いことでもない。ツマラナイけどね。)

「次もよかったよ!と言われるものを書きたい」が自分の中に出てきたとき、ふと立ちどまった。
わたしが一番大事にしたいことは、そこか?、と。
こうして書くことそのものが楽しいのだから、書いたものが誰かに伝わって喜んでもらえたとしても、それは幸せのオマケにすぎない。なのに、ついついわたしは「オマケ」ばかりを追いかけようとする傾向があるらしい。
自分が書き表したかった思いが誰かに届いた!、という体験と嬉しい気持ちは胸いっぱいに受けとって、わたしはわたしのまま、とらわれることなく書こう。今はそんな気分。
すなわち毎回ヒットは打てないけど、楽しんで書くのでよろしくね、という言い訳でもあります。笑

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さて。香港のトレッキング。
個人的な興味の赴くまま、なぜ香港にトレッキングコースが作られてきたのか?という疑問をたどってきた。
岩山だらけの寒村だった香港島。イギリスの統治が始まり、人口増加に伴う水不足を補うための貯水池が各地に作られ、保水目的で周囲に大規模な植林が行われた。それにより森林面積は、香港全体の4割にまで広がった。

ここまでなら、現在でも発展途上国の水不足解消や環境保護を目的に、世界各地で取り組まれていることだろう。しかし、イギリス人はその緑化したエリアに縦横無尽にトレッキングコースを作ろうと試みた。この発想、他の民族にはなかなかないんじゃないだろうか?と思う。
当初わたしは、それは「歩くこと」が好きなイギリス人だからこそ、イギリス人のために作ったのだろうと思っていた。

甲南大学教授で英文学者の中島俊郎さんという方が「ウォーキングの文化史~イギリス人はいかに歩き、何を生み出したか~」という論文を書いている。甲南大学が学術研究などの発展に貢献するため、ネット上に無償公開している雑誌『甲南大學紀要 文学編 164(2013)』へ寄稿されたもので、イギリス人と「歩くこと」についての歴史的な考察がとても興味深い。

それによるとイギリス人は、ときに巡礼のために、ときに名声や思想のために、そして詩作や風景画を書くためにと、積極的に歩いてきた民族のようだ。
18世紀半ばの産業革命以後は、中心地が都市化すると街中を徘徊する「都市歩き」が流行し、鉄道による長距離移動が可能になると、汽車を使ってロンドン郊外へ出たあと、わざわざ歩いて街へ戻るという「日曜遊歩会」など、歩くことを目的とした同好会ができ、盛んに活動し始めた。(わざわざ歩きたい気持ちは、ALL Tangoとしてもちろん共感する。)
さら20世紀に入ると、体力を誇示するための競歩的歩行大会が開催されたり、アルプスへの登山熱とともに山に登ることを目的とした歩行が大ブームとなった。モンブラン登頂に成功したアルバート・スミスは、その模様を舞台化し大成功をおさめたという。

そんなイギリス人の歩く文化の集大成とも言えるものが、個人の私有地でさえ市民が歩く権利を認める「パブリック・フットパス」、すなわち「歩行者に通行する権利を保証する道」であり「歩くことを楽しむための道」である。1932年には「歩く権利法」として法制化され、現在ではイギリス全土に20数万kmにも渡ってフットパスが張り巡らされている。
戦後1949年には「国立公園・カントリーサイドアクセス法」が制定され、人が定住していようと個人の私有地だろうと関係なく、自然を保護し市民の通行権を保障する国立公園があちこちに作られた。個人の土地所有権が確固たるものとされている日本では、まず思いつかない権利であり法律ではないかと思う。

​そんな「断固歩く」イギリス人だからこそ、植民地化した香港でも歩かずにはいられないのだろうと思っていた。無いならば作れとばかりに、トレッキングコースを整備したのだと思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。これがまた興味深いところだ。

1976年、中国大陸で起こった文化大革命の影響で、香港人労働者や学生による反イギリス暴動が勃発した。警官隊や軍隊が投入され数ヶ月ののちに鎮圧されたものの、死者は50人以上、800人以上が負傷する事態となる。イギリス政府は、こうした若者のエネルギーを他へと向かわせるため、1971年、貯水池の一角にバーベキューサイトを作り、試験的にレクリエーション施設を設置して若者を呼び込んだ。
これが功を奏して人気を博すると、1976年には「カントリーパーク条例」が制定され、カントリーパーク(都市公園)に制定されたエリアには植林を進め、園内を歩き回れるトレッキングコースが整備されることとなる。もちろんこれは、イギリス本土での「パブリック・フットパス」や「国立公園・カントリーアクセス法」の制定、イギリス人の歩く文化が基盤となったことは言うまでもないが、今日に至るまで愛されてきた香港トレッキングコースが作られた直接的なきっかけは、この香港の政治的な緊迫状況にあったようだ。[次回に続く](MK)
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香港トレッキング④  〜終戦の日に〜

8/15/2018

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「行ってみたら、めっちゃよかったんよ~。」と、軽い気持ちで香港トレッキングをVOICEするつもりが、戻ってこれないほど脱線しているこの連載。
今回は香港を離れて日本、しかもここ丹後へとまさかのUターン。自分でも思ってもみなかった展開に、不思議なご縁を感じつつ、連載する機会をいただいたことに(初めて)感謝した。こんな素晴らしい出会いがあるならば、頭であれこれ内容を組み立てて、連載を操縦しようとするのはやめよう(もちろん、目的地はある!)。思いのままに綴っていこう、と改めて腹をくくったのだった。笑

*****

わたしは、この連載を通して香港を調べるようになって初めて、第2次世界大戦で日本がイギリス統治下の香港を制圧したことを知った。日中戦争後、日本は中国の大部分を占領し、その後イギリスを含む連合国に対しても戦争を始めたのだから、香港が戦場となり一次的に日本に統治されたことも不思議はないのだが、そうだったと知ったとき、とても衝撃を受けた。
何気なく旅をした国の歴史に、日本が大きく関わっていた。しかも悲しい歴史の一部として関わっていた。あちこち旅をしてきたけれど、この経験は初めてだった。だからなのかはわからないが、この歴史について、もっと知りたいと思った。(行く前は、そんなことほとんど思ってもいなかったのに、不思議なものだ。)そして出会ったのが、この本だった。

『憎悪と和解の大江山 あるイギリス兵捕虜の手記』
​フランク・エバンス著 糸井定次・細井忠俊訳 彩流社(2009)


著者フランク・エバンスさんは、連合王国イギリスの構成国のひとつであるウェールズの生まれで、1941年に入隊後、経理隊の一員としてイギリスから香港へ派遣された。その頃、ヨーロッパはすでにナチスドイツの脅威にあり、イギリス本国では、極東で勢いを増す日本に対し、香港の防衛は困難だろうと判断していた時期だったという。香港到着後2ヶ月足らずで開戦、1ヶ月に満たない戦いののちに日本軍の捕虜となった彼は、香港の強制収容所で2年、さらに船と列車の劣悪な旅を経て大江山にあるニッケル鉱山の収容所に連れてこられ、終戦までの1年8ヶ月を過ごした。

京都府北部、福知山市・宮津市・与謝野町にまたがる大江山は、丹後に住む人にとっては馴染み深い山だ。標高832mの千丈ヶ嶽は丹後地方の最高峰であり、360°開けた頂上からは南に福知山や綾部市街および丹波の山々が見え、北には丹後半島、若狭湾などが一望できる。ALL Tangoの街歩きミステリープログラム「丹後の鬼ぶらりー」に繋がる「鬼伝説」で有名な山でもある。

この山の北西麓に、軍需品の製造に必要な鉱物をわずかながらでも得るために調査・採掘された、ニッケル鉱山があり、第2次世界大戦下の最盛期には約3,400人もの人たちが働いていた。日本人鉱夫の多くが出征して人手不足になると、学生や囚人のほか、中国・朝鮮から強制連行された350人以上の人々、太平洋戦争で日本軍の捕虜となった香港・マレー半島・フィリピン諸島の連合軍捕虜、約700人が労働させられていたという。フランク・エバンスさんはその一人であり、栄養失調や過酷な労働、蔓延する病気や常態化していた懲罰などの過酷な状況をなんとか生きのびた一人だった。

よそから丹後にやってきたわたしにとってさえ大江山は身近なものだっただけに、そこがかつて1,000人以上の外国人による強制労働の現場だったと知ったときは、文字通りぎょっとした。日本史を学んできた過程で「強制連行」は知っている。「強制労働」も知っている。けれど、こんな身近に、こんな馴染みのある場所に、その「現場」があったとは想像もしていなかった。

この本が、戦争や捕虜となったあとの惨めな生活に関する記述だけだったとしたら、そしてその中で、著者が当然持ったであろう日本に対する恨み辛みが満ちていたとしたら、はたしてわたしは実際に本を手にとり、読んでみようという勇気を持っただろうか。
しかしこの本は、表題にあるような「憎悪」は驚くほど語られていなかった。さらに、彼が戦後再び日本を訪れ、鉱山や捕虜収容所の跡地に立ち、現地の人たちとともにこの地に眠る同僚を偲ぶための慰霊碑を建て、ともに平和を祈念するに至った経緯まで描かれている。わたしの場合、そこにわずかながらでも希望を感じたからこそ、最後まで読み進む気力を得たし、より知りたいという気持ちが動いたことは間違いない。

1985年に英語で出版され(『Roll Call at Oeyama P.O.W.Remembers 大江山の点呼 〜捕虜は思い出す』)、24年を経て日本語版が出版されたこの本は、鉱山や収容所があった町で生まれ育った二人の翻訳者の、並々ならぬ思いをもって翻訳されている。可能な限り事実を確認して翻訳し、読み手である日本人に伝え残そうとする熱意のもとに、細かな訳注もつけられている。
驚くほど淡々と記述されている原著には、終戦直後ウェールズへの帰国を果たしてから、1984年に香港・日本を訪れるまでの著者の「戦後」は全く書かれていない。そのため、翻訳者のひとりである細井忠俊さんは、翻訳作業に入る前にウェールズを訪れ、エバンスさんの戦前・戦後を直に知る人たちと会い、彼の人となりを知る手がかりを取材をしている。
それにより、終戦直後、彼は日本に対して激しい「憎悪」を抱いていたこと、捕虜生活による戦争神経症で深刻な精神的問題を抱えていたこと、戦後、家族の反対があったにも関わらず日本を訪問したことにより、その「憎悪」が「決して忘れることはできない」ものの「許し」へ、平和を願う気持ちへと大きく変化していったことについて、翻訳者によって記されている。この翻訳者二人の思いがあってこそ、日本語版の本がさらに心揺さぶられるものとなっていると思う。

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先日、与謝野町にある大江山運動公園のグランド北側にある慰霊碑を訪ねた。

​すぐそばにある道の駅「シルクのまち かや」の一角には、強制連行され鉱山での労働中に亡くなった中国人の方々のための慰霊碑もあった。

本の付録に、エバンスさんが収容所内のトイレットペーパーやダンボールを使って作ったノートの写しがある。このノートは、過酷な状況をともに過ごしていた仲間に回され「いま、わたしの食べたいもの」を書き込んでもらったものだ。
「マフィンが食べたい」「スペアリブの焼肉とレモン・パイ」「アップル・パイの分厚いの」「ミルク・チョコレート」などなど。食べたいものが出身地とサインを添えて、えんえんと書かれている。
淡々と書かれたこの本を淡々と読んできて、ここでわたしの涙腺が崩壊した。いつでも、誰にでもある、普遍的な欲求。「おいしいものが食べたい」が、そこにはあって、遠く感じていた彼らとの距離が一気に縮まり、胸が詰まった瞬間だった。
大好きな家族、愛する人たち、仲間とともに、わたしもしばしばこの会話をする。「ねぇ、いま、何食べたい?」。平和な現代の日本でも、こんなノートを作って回したら、みんな嬉々として次々とおいしいものを挙げ記すだろう。「あいつがコレを書いたらなら、俺はコレを書く。」「どうだ。こっちの方がうまそうだろう?」そんな遊び心に似た気持ちとともに。

ALL Tangoでは、フランク・エバンスさんが過ごした捕虜収容所跡地のそばにある阿蘇海でも、SUPやシーカヤックを使った様々なプログラムを行っている。参加してくださる人たちとともに、毎回とても楽しい時間を過ごし、笑顔で別れる。
​そんな平和で、幸せな日常があることに心からの感謝を込めて。
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.追記:ご紹介した『憎悪と和解の大江山 あるイギリス兵捕虜の手記』は、調べる限り、丹後域内の図書館(与謝野町・宮津市・福知山市・京丹後市)では蔵書となっているようだ。興味があって図書館が近い方はぜひ。(MK)
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香港トレッキング③

8/8/2018

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1840年アヘン戦争後、イギリスが植民地化した当初は岩山だらけだったとも言われていた香港。その後、森林が増え、数々のトレッキングコースが整備された背景には何があったのだろう? 前回の続きです。

「あのぉ〜。いつになったら香港の山に登り始めるんですか?」というお声もいただくが(笑)、トレッキングを入り口にして調べ始めると、今までまるっきり興味のなかった香港のアレコレがおもしろくてしかたなくなってしまった。なので、本題のトレッキングを始めるまで、もう少しおつきあいいただけると嬉しい。(興味のない方はすっ飛ばしてください。)

7世紀に始まった唐の時代から、中国の貿易拠点は常に香港の北西、広州におかれていたため、植民地化された当初の香港は、わずか7,500人程度の寒村に過ぎなかったと言われている。そんな海沿いの小さな村に、イギリス系の貿易会社が次々と拠点を構え始めたことにより、当時混乱し始めていた清朝から、たくさんの中国人が新しい仕事や商売を求めてなだれ込んできた。
すでにイギリスの植民地だったインドや、ヨーロッパからも人々がやって来たため、香港の人口は植民地化4年後には24,000人、20年後には12万人以上にもなったと言われている。(その後、第2次世界大戦で、日本が一時的に占領する前は120万人、現在は700万人以上の人々が暮らしている。)
この爆発的な人口増加に伴って起こったのは、深刻な水の供給問題だった。

亜熱帯気候の香港には、もちろんたくさんの雨が降る。しかし、ほとんどが岩山で植物が根を張りにくい地盤のため、降った雨は地下水にならず、山の表面を流れ落ちてしまう。そこでイギリス政府は、岩肌を流れる雨水を受けとめ、貯めておくための貯水池を香港各地に作り始めた。
貯水池を保護するために大規模な植林が開始されたのは1860年代だという。最初は香港島、その後新界地域に大規模な植林が行われた品種はマツ。この植林によって、香港の森林面積は全土の2割にまで広がった。第2次世界大戦の日本軍侵略により、深林のほとんどが一旦焼失。戦後、再びイギリス政府による植林が再開され、香港の土壌に適応し、かつ成長の早い台湾アカシアなどの外来種が多く用いられたという。何十年にも及ぶ、この地道な植林活動により、現在、香港の深林面積は約4割にまで広がっている。

​ちなみに、このような貯水池を香港各地に17個もつくり、トイレなど生活用水の一部を海水にするなどあらゆる努力をしても、香港内で確保できる水量は、現在の人口700万人が毎日使う水の約2割に過ぎない。
そのためイギリス政府は、1960年代に香港から80km以上離れた中国広東省の東江(川の名)からパイプラインを引き、中国から大量の水を輸入し始めた。イギリス統治下の香港は、中国から水(さらには電力も)を購入することで繁栄した一方、1980年代の香港返還交渉で、中国側に有利に握られていたのも、この水の供給ラインが大きかったことは、とても興味深い。(MK)

※冒頭の写真は、トレッキング地点へ向かったバスの中から見た香港の貯水池のひとつ。大潭湾の奥に、貯水池である大潭水塘が見える。
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香港トレッキング ②

8/1/2018

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「トレッキング?香港で?そんなにいいの??」
香港旅行を前に、まったく知らなかった香港のトレッキングをすすめられ、パンフレットやネットを見てみると、とにかく景色が素晴らしい。
「おぉ〜!行ってみたーい!!」とテンションが上がった。
​前回の続きです。

わたしは大学時代、学業もそこそこに、大鍋やテントを積んで山を駆け回っていたサイクリング部員だった。そして今は、京丹後の自然や文化を発信するALL Tangoメンバーのハシクレでもある。自然豊かで素敵な場所には、とても興味がそそられる。
さらに、身長が低い(という理由だと自分では思っている)ので、高いところから眺める景色が大好きだ。登山する山を選ぶときには「山頂の視界がひらけていて、景色が素晴らしいこと」が絶対条件。写真を見る限り、香港のトレッキングコースは、そんなわたしにうってつけのように感じられた。

ということで、期待を胸に香港へ向かった。
6月の香港は暑い。この夏、ニッポンもそうとう暑いけれど、ホンコンは初夏の時点で十分暑く、まだ暑さに慣れていない体にはかなりこたえた。
ホテルの外へ出ると、まず強い日差しが肌に刺さる。続いて感じるのは、むわっとした熱気。小さな街の中に、見上げるほど高く、かなり古い高層マンションがガンガン立っていて、一斉にエアコンをかけているからなのか?そもそも亜熱帯気候だからなのか?(たぶんそっち。)とにもかくにも蒸し暑い。
ああもう〜っ。キッツーイ!!とガマンできなくなって、うっかり涼しいスタバ@香港へ入りそうになる。(香港に着いてから、ほぼ毎朝通っていた。笑)
いやいやいやいや。今日はトレッキングだ。他の何をおいても、トレッキングだけは行ってみたいと思って来たのではなかったか。
スタバの素晴らしい涼しさと、大好きなカプチーノやスイーツの映像を、ブンッ!と頭から振りはらって、いざ出発。
香港のトレッキングコースは、前述した香港政府観光局が紹介しているだけでも30ほどある。帰国後に調べてみると、50〜100kmにもおよぶ長いコースが4つあり、そのほかに大小50近いコースが整備されているらしい。
おもしろいと感じたのは、そんなトレッキングコースを作ったのが香港人(中国人)ではなく、イギリス人だったということ。

日本では昔から数々の登山道が作られてきた。
古いものでは、昨年、開山1300年を迎えた富山県の白山。修験道(日本古来の山岳宗教が仏教に取り入れられた、日本独自の宗教)の僧侶、泰澄が奈良時代に開山したとされ、現在もたくさんの登山道が整備されている。おそらく、そんな時代よりずっと前から、日本の山は登られてきたであろうと想像できる。

​一方、同じアジアでも、香港にはそのような山岳信仰も、山登りを楽しむ文化もなかったらしい。そもそも、香港の地質は火山噴火によってできた火成岩が大半を占めており、植物が育ちにくい地盤であるため、アヘン戦争後にイギリス統治が始まった1840年代当初は、岩山だらけだったとも言われている。

さて、ではどのような経緯で森林が増え、数々のトレッキングコースが整備されるまでに至ったのか?次回につづく。(MK)
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香港トレッキング ①

7/24/2018

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香港に数々のトレッキングコースがあるのをご存知だろうか。

いきなり話がそれるが、トレッキング、ハイキング、登山・・・どう違うのか?わからなくて調べてみると、「登山」は山頂を目指して登ること。「トレッキング」や「ハイキング」は必ずしも山頂を目指すものではなく、主に山の麓を中心に山道を歩くことを楽しむのが「トレッキング」。「ハイキング」は起伏の少ない高原や野山などを楽しみながら歩くことを指すらしい。

さて、香港トレッキングの話。

先日、初めて香港へ行くと話したら「香港にはいいトレッキングコースがあるから、行ってみたらどうか。」と74歳の父に勧められた。
香港と言えば、ネットなどでは必ず目にするビクトリア・ピークからのぞむ高層ビル群。狭いエリアに高いビルが密集していて、人も多く暑く、ごちゃっとしたイメージ。もともと香港にほぼ興味がなかったわたしは、そんな人ごみの街を楽しめるだろうかと不安さえ感じていた。まさか、わざわざ行くほど素敵なトレッキングコースがあるなんて思いもよらなかった。

わたしの父は、肝機能の数値が上がり始め中年太りが気になりだした40代から、健康のためにとマラソンを始めた。「どうせ長続きしないだろう」という家族全員の予想を見事にくつがえし、いまに至るまで30年以上走り続けている。
最初は家のすぐそばの河川敷を数キロ、そのうち雨の日も走りたい、水を持って走るのは大変だとジムに通うようになった。フルマラソンはもちろん、最近はリタイアすることが増えたものの100kmマラソンやトライアスロンにも参加している。すでに健康を通り越して「毎日走らないとスッキリしない体」のようだ。
一緒に走る仲間もいて、全国各地の大会へ赴いては共に楽しんでいる。これほど続いている秘訣は、彼の性格もあるだろうが、とにかく楽しむことなんだろうと見ていて感じる。大会では記録や順位のことは一切気にせず、毎回スタートラインに無事立てたことを喜んでいる。何より走ったあとに仲間と飲むお酒が最高においしいようで、もはやそのために走っていると言っても過言ではないらしい。
そんな父が「元気なうちに海外でも走ったり登ったり(飲んだり)してみたい」と言い始め、ホノルルマラソンの次に行ったのが香港でのトレッキングだった。

父から旅行前に手渡されたのは、香港政府観光局が発行している日本語版オールカラーの「香港ハイキング&サイクリングガイド」という小冊子。そして、香港在住のマラソン仲間がくれたという『香港を知るための60章』(吉川雅之・倉田徹 編著/明石書店/2016)の最後にある「トレッキング」というコラムのプリント。
「トレッキング?香港で?そんなにいいの??」と期待していなかったわたしは、このふたつに目を通して一気にテンションが上がった。「ここ、行きたい!!」と心が湧き立った。

というわけで、今回から何回かにわけて香港トレキングについて書こうと思う。すでに行ったことがある方や興味がある方など、ご感想をいただけると嬉しい。(つづく)

[※参考文献]
「香港ハイキング&サイクリングガイド」の小冊子は、香港政府観光局のHPに電子版が載っていたので、ご参考までに。
香港政府観光局の「豊かな自然」を案内するページもおすすめ。
​わたしには難しくてコラムしか読んでないけれど、『香港を知るための60章』も興味がある方はぜひ。(MK)
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