2年前に丹後半島、というより伊根に移り住んでみようと思ったのには自分なりに大きな理由があった。一つは社会的イノベーションを辺境の地で起こせるかどうかに興味があったことと、自分自身が田舎での暮らしというものをやってみたいとずっと考えていたことの2点。
都会に住んでいた頃は何かとても不自由さを感じる一瞬があり、生活を成り立たせている水道や電気はもとより何よりも食料が一体どのように調達されているのか疑問に思ったり、普段の生活では自然に触れる機会が極端に少なく物質的な生活に追われる感じになったり、東京での生活がこのままずっと続いていくとは到底思えないような感覚に陥ったり、ちょっとライフスタイルを見直す必要があるのだろうと漠と考えていた。
物質的な欲求を充足するためではなく、口幅ったい言い方をすれば「人間らしく」生活を組み立て直すためには何が必要なのか、何もかもを変える必要はないけれどもう少しあくせくせずに生きるには何をどうすれば良いのか考える時間を持ちたいと願っていた。そのためには一度は都会を離れて田舎暮らしをしてみて、そこから客観的に都会の生活を見つめ直すプロセスが必要だろうとも思っていた。
社会的なイノベーションとは都会に住む人たちにとって役に立ち、少なくとも幸福度が増すような仕組みやシステムの変革がもたらされることをイメージしており、それは今の世の中に絶対に必要なものだとの確信があり(なぜなのかはよく分からない)、何とかしてその一端でも掴むことが出来ないかと思いながら伊根にやってきたのが正直なところ。
都会で仕事をしている時も、いろんな企業に入って社員の人たちと仕事に取り組んで行く中で、「既存の延長線上でしか物事を発想できない」、「既存のルールに縛られ身動き出来ない」壁に何度もぶつかり、この壁を壊さない限り未来はないなと思う場面が多々あり、そのためにも「感覚的に」物事を捉えることを恐れてはいけないと感じていた。説明責任なる言葉が一人歩きする中、「直感的にそう思う。」なんて言おうものなら端から相手にされないのが当り前。かといって理詰めで突き詰めるわけでもなく実は「なんとなく」物事が決まる傾向の強い社会の中で、感覚的なものを論理的に磨き上げることが出来れば鬼に金棒ではないかと考えていたりした。そのためにも自分の「五感」をもっと磨く必要がある、田舎暮らしはきっと役に立つと期待していたところもある。
今から思えば、人が溢れかえっている喧噪を離れて海や山の自然の中でのんびりしながら生活することできっと見えて来るものがあると漠然と期待していたのだろう。たしかに決定的に違う時間の感覚や、天候を気にする頻度、日々目にするそれはそれは美しい朝焼け、夕暮れ、星空など都会ではすっかり忘れられている自然の中で生活をしながら、感覚を研ぎ澄ますこと、つまり自然の中で生活をしている実感と充実感を得られるようになったと思う。ちょっと行けば当り前のように田畑が広がる土地で、新鮮な野菜や魚がいつでも手に入り、あくせく満員電車で通勤する必要もない。よく言われることだが、インターネットがあれば田舎で暮らすことに不利な点は少ないのかもしれない。(この間まで伊根はADSLしかなくて閉口したけれど…。)
そもそも、都会で暮らすことのメリットは何だろう。どうしてみんな田舎から都会に行ってしまうのだろう。次回はそれを少し考えてみたいと思う。(KT)
都会に住んでいた頃は何かとても不自由さを感じる一瞬があり、生活を成り立たせている水道や電気はもとより何よりも食料が一体どのように調達されているのか疑問に思ったり、普段の生活では自然に触れる機会が極端に少なく物質的な生活に追われる感じになったり、東京での生活がこのままずっと続いていくとは到底思えないような感覚に陥ったり、ちょっとライフスタイルを見直す必要があるのだろうと漠と考えていた。
物質的な欲求を充足するためではなく、口幅ったい言い方をすれば「人間らしく」生活を組み立て直すためには何が必要なのか、何もかもを変える必要はないけれどもう少しあくせくせずに生きるには何をどうすれば良いのか考える時間を持ちたいと願っていた。そのためには一度は都会を離れて田舎暮らしをしてみて、そこから客観的に都会の生活を見つめ直すプロセスが必要だろうとも思っていた。
社会的なイノベーションとは都会に住む人たちにとって役に立ち、少なくとも幸福度が増すような仕組みやシステムの変革がもたらされることをイメージしており、それは今の世の中に絶対に必要なものだとの確信があり(なぜなのかはよく分からない)、何とかしてその一端でも掴むことが出来ないかと思いながら伊根にやってきたのが正直なところ。
都会で仕事をしている時も、いろんな企業に入って社員の人たちと仕事に取り組んで行く中で、「既存の延長線上でしか物事を発想できない」、「既存のルールに縛られ身動き出来ない」壁に何度もぶつかり、この壁を壊さない限り未来はないなと思う場面が多々あり、そのためにも「感覚的に」物事を捉えることを恐れてはいけないと感じていた。説明責任なる言葉が一人歩きする中、「直感的にそう思う。」なんて言おうものなら端から相手にされないのが当り前。かといって理詰めで突き詰めるわけでもなく実は「なんとなく」物事が決まる傾向の強い社会の中で、感覚的なものを論理的に磨き上げることが出来れば鬼に金棒ではないかと考えていたりした。そのためにも自分の「五感」をもっと磨く必要がある、田舎暮らしはきっと役に立つと期待していたところもある。
今から思えば、人が溢れかえっている喧噪を離れて海や山の自然の中でのんびりしながら生活することできっと見えて来るものがあると漠然と期待していたのだろう。たしかに決定的に違う時間の感覚や、天候を気にする頻度、日々目にするそれはそれは美しい朝焼け、夕暮れ、星空など都会ではすっかり忘れられている自然の中で生活をしながら、感覚を研ぎ澄ますこと、つまり自然の中で生活をしている実感と充実感を得られるようになったと思う。ちょっと行けば当り前のように田畑が広がる土地で、新鮮な野菜や魚がいつでも手に入り、あくせく満員電車で通勤する必要もない。よく言われることだが、インターネットがあれば田舎で暮らすことに不利な点は少ないのかもしれない。(この間まで伊根はADSLしかなくて閉口したけれど…。)
そもそも、都会で暮らすことのメリットは何だろう。どうしてみんな田舎から都会に行ってしまうのだろう。次回はそれを少し考えてみたいと思う。(KT)